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■クルマとサブカルチャーを楽しむ人 2010年代の前半頃、とあるイラスト投稿のSNSでマニアックな国産車のイラストやアートを連日アップロードする男子高校生に出会った。 画面いっぱいに描かれたセリカ・カムリや初代ミラージュが印象的だったのを今でもよく覚えている。 自らの大好きなクルマを力いっぱいにインターネットを通して表現する姿勢は当時の自分にはとても素敵に感じられ、また少し羨ましくもあった。 それから数年が経過して筆者も社会人になった。 SNSを通じ勇気を出してクルマのオフ会に参加させていただく機会を得る。 当時そのコミュニティは、ネオクラシックな乗用車と20代前半のオーナーが多く集まるイベントであった。 主催者もやはり若き青年で、その人こそ数年前にSNSで出会った「自動車美術研究室」さんだった。 クルマが大好きな高校生は大人になり、若き自動車コミュニティの中心人物の一人になっていた。 ▲グレードは最上級グレードからひとつ下の1.8EXL-S。現行の北米アコード(CV3型)のグレード”EX-L”にまで引き継がれる老舗ネームだ 自動車美術研究室さんは現在27歳。 名前が示す通り、自動車にまつわるさまざまなカルチャーに造詣が深い人物だ。 とりわけカタログやミニカー、ノベルティに書籍といった分野において目がなく、自らの家にはコレクションが所狭しと並べられているという。 好きが高じて始めたコレクションはただ集めるだけでなく、同好の士を集め”カーサブカルフェス”なるイベントを催し、毎回大勢のコレクターが集う会となっている。 また、自動車美術研究室さんが主催するミーティング、通称”ジビケンミーティング”は既に初開催から7年、多いときで200台以上の参加車両が集うイベントとなった。 そんな彼のクルマ生活におけるターニングポイントとなったという、1986年式のホンダ・アコードEXL-Sについて今回は触れていきたい。 ■「最初は3万円のトゥデイを買うつもりで...」愛車との出会いのきっかけ 「18歳で免許を取得してからはずっと欲しいクルマを探しながら2年の月日が経っていました。当初、ジェミニかスプリンターシエロの中古車を購入しようと考えていたのですが、知人がピアッツァを購入したこともあり、リトラクタブルヘッドライトのクルマへの憧れが凄く強まっていました。ただ、当時学生だったため予算がなく、先輩から3万円のトゥデイを購入するつもりでした」 口から飛び出してくる車種群に昭和63年前後の雰囲気が漂っているので注釈を入れておくが、平成28年頃のエピソードである。 当時、先輩から譲ってもらう予定だったトゥデイは故障中で修理が必要な状態だったそう。 そこでホンダの旧車に強い販売店を探し、インターネットで連絡をとるとそこに在庫していたのがこのアコードだったという。 一旦気になると大学の講義も手につかないくらい気になってしまい、学友のクルマに同乗して販売店へと見に行くこととなった。 「実際に車両を目の当たりにしたときに、デザインが超かっこいい!と思いました。当時はアコードのことはほとんど知らず、ただリトラクタブルヘッドライトがついているセダン程度の認識しかありませんでした。ただ、運転席に乗り込んだ瞬間”買うモード”に一気になってしまうくらい直感的にいいなと思える存在だったんです」 ■ほぼ知識なし。直感が長い付き合いに とんとん拍子でアコードに引き寄せられていった自動車美術研究室さん。 その個体にどこか運命的な感覚を感じ、購入を決めたという。 「実際に購入して手元に届けられた際、お店の人に”このクルマ、キャブだから気をつけてね”といわれ初めてキャブレターという機構を知るくらいに当時は知識がありませんでした」 ▲リトラクタブルヘッドライトを開くと一変する表情。80sらしいデザインが逆に新鮮に感じられる。小糸製のハロゲンランプが収まる 購入したときは9万キロ前後、現在は124000kmと複数台の所有車を使い分けながら距離を刻んでいる。 購入してから8年間でアコードとは紆余曲折あり、1年間ほど主治医に預けたままで乗れなかった時期もあったとか。 「燃料ポンプ、ラジエター、サーモスタット、オルタネーター、エアコン。マフラーの修理はワンオフで製作してもらいました。ただ、これらの交換はアコードには定番で保守と消耗部品の交換といえるのではないかとも考えています」 そう笑顔で話す自動車美術研究室さんは、すっかり逞しくエンスージアストの道を歩んでいると感じる。 過去、エンジントラブルを疑った際に部品取り用の同型アコードを購入。 部品取り車はナンバープレートをつけるつもりはなかったが、置いておくほど朽ちていきそうなのが見ていられなくなり、エアコンが効かないながらも動態保存しているとか。 ▲デュアルキャブのB18a DOHCエンジンを搭載。当時、最上級グレードのSi以外はインジェクションではなくキャブ仕様である ■「時代を抜き去るもの」先進的なボディに身を包んだデザイン 自動車美術研究室さんがもっとも気に入っているところは開閉式のリトラクタブルヘッドライトの部分だ。 ヨーロッパおよびクリオ店専売のアコードCAは固定型のヘッドライトになるが、そちらにはあまり興味がないそう。 ミドルクラスのセダンとして上級車の装いを持たせつつ、先進的、かつトレンディな姿勢をデザインにまで注ぐところにホンダの精神を感じる。 妥協なく突き詰めた結果、国内外で販売記録的にもスマッシュヒットを生み出し、現在でも米国のモータリゼーション史に残るほどの存在となっている。 当時キャッチコピーだった”時代を抜きさるもの”は、単なる意気込みだけではないように感じられる。 外観を改めて眺めてみる。 低いノーズ、大きなキャビン、トランクのハイデッキ感。 人間を優先した車両のパッケージングを実現しながらも、デザインを巧みに成立させている。 CA型のアコードは「4ドアのプレリュード」を想起させるといわれるが、実際に並べてみるとその構成は大きく異なる。 しっかりとセダンに見えるようにしつつ、2ドアクーペのようなスポーティーさを融合させる。 スタイリングと設計が高次元に組み合った結果といえよう。 クルマの内外装に大きなモデイファイは加えないものの、3ヶ月に一回くらいの頻度で気分転換にホイールキャップを履き替えているそうだ。 足回りの変更は外観に大きな変化をもたらすので効果的な着替えであると感じる。 この時代のホンダ車のホイールキャップはナットと一緒に元締めされている車種も多い。 大ことなコレクションが飛んでいかない部分にも寄与するものだ。 ▲純正の外観を保ちつつ気分によってホイールキャップを履き替える。今回はインテグラの物が装着される 次に内装を見てみよう。 ▲低くコンパクトにまとめられながらもダッシュボード上部にはトレーなど機能的なレイアウト。ステアリングにはクルーズコントロールも装着される グラスエリアを大きくとったデザインは当時のホンダの思想を大きく反映する。 シートにはオリジナルのハーフカバーを装着する。 当時を偲ばせるコレクション的に装着しているのではなく、夏場はモケットのシートが熱を持つためあくまで実用品として使っているとのことだった。 当時の部品は小変更点が多く、見た目は似ていても生産元のサプライヤーが異なるなどもあるという。 例えば、アコードのメーターも前期と後期に見た目の差異は少ないが、NS製とデンソー製がある。 知人が所有しているアコードのメーターが故障し、代替品を購入したところ製造元が異なりメーターは動作しないということに初めて気が付いた。 手痛い出費になったと推察するが、そんな、一つ一つの経験がオーナーの経験値を高めていることであろう。 ■アコードは人生観を変えるターニングポイントへと導いてくれた存在 アコードを買う前と後では人生観がまるっきり変わったという。 クルマを買ったことによりオフ会など対外的にイベントへ参加する機会が増え、自然と今まで知り合うことのなかった知人が増えていったそう。 そのうちに自らイベントを企画するようになり、周囲の協力を得ながら規模は大きくなっていった。 「それまでもイベントに行って参加するなどはしていましたが、人を集めて矢面に立とうという気持ちはありませんでした。ただ、クルマを通して楽しい空間を作りたいという気持ちが強くなり、仲間と一緒にイベントを開催するに至りました。クルマのイベントはある意味自分が目立たなくて良いのが好きなんです。クルマを中心にした話ができ、SNSでその車種をきっかけに繋がりが増えていく、そんな点に魅力を感じイベントを続けていますね」 最後に今後、このクルマとどう付き合いたいかを伺ってみた。 「この先、クルマを取り巻く世界は大きく変わっていくと思います。たとえ電動車しか走れなくなった世界になったとしても乗り続けたいと思っています。アコードをEV化できるように準備していかなくちゃいけませんね!」 笑って話す自動車美術研究室さんの言葉は冗談めかしながらも、本気の決心を感じさせるものだった。 クルマを取り巻く文化、そしてそれらを楽しむ仲間たちと共に未来へと走り続けてほしい。 そう感じるインタビューとなった。 [ライター・撮影/TUNA]
■手作りの6輪F1タイレルP34とは? 茨城県水戸市にある「カスタムビルド&レストア WATAHIKI(以下、CBR WATAHIKI)」代表の綿引雄司氏が、仕事の合間を縫って手作りで製作している、6輪が特徴的なF1マシン「タイレルP34」。 その完成度の高さから、ネット上ではタイレルP34のコンプリートマシンを綿引氏が所有していると誤解されることもしばしばだ。 また「タイレルP34のレプリカ」と評されることもあるが、綿引氏独自の解釈で製作された箇所も少なからずある。 そのため、忠実なレプリカというわけではない。 つまり、この「レプリカ」という表現がこのマシンに当てはまるかどうかは人それぞれの解釈に委ねたい。 むしろ、イベントやCBR WATAHIKI(事前にアポイントを取れば実物を見せてくれる)に赴けばホンモノさながらのタイレルP34が間近で観られるのだ。 この事実に素直に感激し、喜ぶべきなのかもしれない。 製作者である綿引氏によると、このF1マシンが存在することは、タイレルのルーツでもあるケン・ティレル氏のご子息、ボブ・ティレル氏も把握しているという。 しかも、ボブ・ティレル氏は好意的に受け止めてくれているとのことだ。 ■前回の取材後「全バラ」となったタイレルP34 8月にオートランドテクノ(茨城県石岡市)でお披露目したあと、カスタムビルド&レストア WATAHIKIにて隼用エンジンのドライサンプキットの取り付けおよびフレームの塗装を行ったタイレルP34。 ただ単に「走る」ことから少しずつ「攻める」マシンへと、つまりフォーミュラ本来の姿へと、進化の歩みを進めている最中だ。 …といっても、筑波サーキット2000を●●秒台といったような限界までタイムアタックをするようなマシンではないことを明記しておきたい。 ■1976年仕様のカウルを纏ったタイレルP34がサーキットを駆ける! 10月某日、綿引氏よりオートランドテクノにてタイレルP34を走らせるとの連絡をいただき、現地へ。 試走当日は前日まで雨の予報。 事実、カスタムビルド&レストア WATAHIKIからオートランドテクノまで移動するあいだに雨が降ったようで、タイレルP34のボディにも雨粒がついていた。 しかし、現地は曇り。 ときどき薄日が差すような奇跡(綿引氏曰く、晴れ男らしい)が起こったのだ。 こうしてタイレルP34をピットロードへと移動させ、エンジン始動! 製作者である綿引氏自ら、オートランドテクノのコースを走らせることとなった。 しかし、どこかエンジンの吹き上がりが今ひとつ。 様子を観つつ、周回を重ねて行くタイレルP34。 エンジンの駆動力を各部へ伝達するチェーンの緩みや、バキュームホース(負圧ホース)の配線の接続がうまくいっていない可能性あるようだ。 動力系はあらゆる流用部品の集合体だ。 本来の設計とは異なる使われ方をしている部位もある。 ■課題点を改善し、妙高ヒルクライムに参戦 去る10月15日・16日に新潟県妙高市で開催された「妙高ヒルクライム」にタイレルP34を持ち込み、コースとなった一般道へ放たれたマシン。 しかし、エンジンが吹き上がらない…。 1気筒火花が出ていない(つまり3気筒で)走っていたのだ。 点火コイルのひとつに不具合が見つかったようだ。 このイベントにエントリーしていた(有)上条自動車商会のスタッフの方たちも、隼のエンジンを積んだフォーミュラーカーを持ち込んでいたのだ。 点火コイルの予備部品を譲ってくださったり、タイレルP34のトラブルシューティングをサポートしてくれたのだ! 自作の燃料タンクに網状のフィルターを装着していなかったため、インジェクターに金属粉が混入していたことが判明。 除去することでエンジンが復活したのだ。 無事フリー走行に間に合ったタイレルP34。 そして2日目のタイムアタック。 あわせて6つのレグ(A地点からB地点までの区切られたタイムを競う競技)でタイムアタックを行い、それぞれのタイムの合計で順位を争うことになる。 綿引氏のタイレルP34は「クラスC」にエントリー。 ちなみに、エントリー台数は全12台。 前日のトラブル解決でエントリーできたものの、先日のテストランよりも高負荷の走行を行ったことでマシントラブルが発生。 果たして無事に完走できたのか…。 タイレルP34の圧巻の走り、そしてトラブルシューティング、クラスCにおける順位は…? ぜひこちらのYouTubeにアップロードされた動画で堪能してみてほしい。 ●フリー走行(妙高ヒルクライム1日目)[Chapter-1] Tyrrell P34 FLAT-OUT on Japanese Public Road | TOUGE BATTLEhttps://www.youtube.com/watch?v=4RRZZfAQ7qA ●タイムアタック(妙高ヒルクライム2日目)Over 200km/h On Public Road in Japan | F1 Tyrrell P34https://www.youtube.com/watch?v=V1blVF4SKIY [10月27日追記]●妙高ヒルクライムフロントサス動き確認動画!https://www.youtube.com/watch?v=4oYrq-ubobE ●妙高ヒルクライムLeg1~2~3~4チェーンテンショナーの動き!https://www.youtube.com/watch?v=SIRFCIVBusk [10月28日追記]●妙高ヒルクライム2022タイレル≪Leg5.Leg6≫4K画質!https://www.youtube.com/watch?v=zzAKL9zzkpU ■さらなる飛躍へと・・・ 部品の集合体がクルマであり、フォーミュラーマシンだ。 綿引氏はアルミ板や角材を切り貼りし、たたき出すことでタイレルP34のシルエットを創り上げた。 そして隼のエンジンを載せ、命を吹き込んだ。 走り込むことで美しくペイントされたアルミボディにも傷がつく。 しかし、そこには確実に魂が宿っているように思えてならない。 繰り返すが、このタイレルP34は手作りのフォーミュラカーだ。 ゼロからイチを創り出せる人こそクリエーターだと思う。 現代の名工、この言葉こそ綿引氏に相応しいように思えてならないのだ。 ※前回の記事はこちら。 ●手作りの6輪F1タイレルP34を追え!Vol.1https://www.qsha-oh.com/historia/article/tyrell-p34-vol1/ ■巴自動車商会/カスタムビルド&レストア WATAHIKI 店舗情報 住所:〒310-0912 茨城県水戸市見川3-528-2TEL:TEL/FAX 029-243-0133URL:http://cbr-watahiki.comお問い合わせ:http://www.cbr-watahiki.com/mail.html ●綿引氏のYouTubeチャンネル"cbrwatahiki" ※「アルミのイオタ」および「タイレル P34」の製作風景も紹介されていますhttps://www.youtube.com/user/cbrwatahiki/featured ※YouTubeで動画を配信している「ぺーさんxyz」さんがイオタの製作過程を詳細にまとめた動画。手作業で造られていったことが分かる構成となっています。 [10月30日追記]●板金職人の技炸裂!アルミ板叩き出しでランボルギーニ・イオタを製作するまで【前編】https://www.youtube.com/watch?v=hvAf5PfcSJg&t=8s アルミ板叩き出しでランボルギーニ・イオタを製作するまで【後編】https://www.youtube.com/watch?v=WidFHqbp4QA ■Special Thanks! オートランドテクノ ●営業時間9:00~18:00(12時〜13時はお昼休み)*ナイター営業は貸切のみとなります。 ●住所:〒315-0028 茨城県石岡市半の木11210-1●TEL/FAX:0299-23-4548●E-Mail:autoland81@techno-as.com●URL:http://www.techno-as.com●Twitter:https://twitter.com/autolandtechno●Facebookページ:https://www.facebook.com/autolandtechno/*レンタルカートあり!http://www.techno-as.com/charge.html 有限会社 上條自動車商会 ●住所:〒390-1131 長野県松本市大字今井松本道7010●TEL:0263-58-0026●FAX:0263-86-6393●E-Mail:kgs-sp@sea.plala.or.jp●事業内容:廃車手続き、自動車解体、中古パーツ・中古タイヤ・バッテリー等の販売●営業時間:8:30〜18:00●定休日:日曜・祝日●URL:https://www.kamijyou-jidousha.com [ライター・カメラ/松村 透・画像提供 綿引雄司氏&I氏]
■スタイリングと居住性を高めた4ドアハードトップ 平成初期の映像をたまたまテレビで見かける機会があった。 幹線道路には多くの白いセダンが行き交い、当時の自動車の流行を感じさせる映像だった。 2022年現在、各メーカーは自動車のラインナップを整理して統合する流れが顕著だ。 しかし90年代初頭といえば、ユーザーの趣向へ幅広い対応をしながらセダン系車種のバリエーションがどんどん増えていった時期でもある。 それを象徴するように、当時乗用車を自社開発を行っている日本のすべてのメーカーが3BOX型の車両をラインナップに持っている。 軽トラックもミニバンもOEMで共通化している現代では考えにくい状況であるとはいえないだろうか。 ▲この個体は最上級グレードの2.3Si-Z。メーカーオプションのサンルーフを装着し、まるで当時のカタログに掲載されていたかのような佇まいだ 1992年3月に登場したホンダ・アスコットイノーバは4ドアハードトップ。 6ライトウインドウに、最近でいうところの4ドアクーペスタイルのレイアウトは、現代の目線から眺めてもスポーティでグラマラスささえ感じるものだ。 当時、ホンダの3BOXラインナップは、末っ子からシビックフェリオ、インテグラ、コンチェルト、ミドルクラスセダンのアコードと姉妹車のアスコット、アコードインスパイアと姉妹車のビガー、そしてフラッグシップのレジェンドなど多種多様であり、それぞれの車種に強いキャラクターを与えている。 開発時期にバブル時代を経ているとはいえ、3BOXへの熱量は相当なものであったといえよう。 ▲サイドからの眺めは、クーペや5ドアハッチバックのよう。流麗に構成されたボディは最近の4ドアクーペを先取りしたかのようだ ■英国に姉妹を持つスポーティなキャラクター エンジンは2.3リッターDOHCのH23A型、輸出仕様のプレリュードと同型のエンジンだ。 H23A自体はアコードワゴンSiR等にも搭載されるエンジンだが、VTECなしの仕様としては日本国内でアスコットイノーバにのみ搭載されるものだ。 1993年からは欧州向けの5代目ホンダアコードとして、イギリスのスウィンドン工場で生産が開始されている。 当時、業務提携の関係にあった英国・ローバーの600シリーズと開発をともにした姉妹車であり、ダッシュボードの形状もは近似のものを採用している。 車体自体のデザインに日本車離れした印象を持つのは、こういったバックボーンだったことからも頷ける。 続いてインテリアを見てみよう。 とにかく低く、グラッシーに作ろうとしていた80年代のホンダ車の思想を受け継ぎながらも、随所に工夫を忍ばせながら進化している。 例えば、ダッシュボードからドアトリムに連なる雰囲気やシートの造形はラウンディッシュに構成され、豊かな雰囲気を醸し出している。 既に高級感を訴求する経験値の高さを感じ、シートやドアライニングなど、人が触れるところの多くにソフトな質感を持たせているところも上級セダンの風格を強めている。 ▲内装には複数のマテリアルを合わせたインパネ周りや大型の水平指針メーターが目を惹く アスコットイノーバが登場した1992年から生産を終了する1996年頃までのトレンドは、セダンやスポーティな性格のクルマからRV車へと趣向が移り変わり行く時代でもあった。 そのような過渡期ともいる時代においても、特徴的なフロントフェイス、デザインおよび車両のキャラクターは、当時を振り返ってもひとつの個性としてしっかりと輝いていたように思える。 オーナーのさいとうさんは1997年生まれの25歳。 つまり、生まれたときには既にアスコットイノーバは生産終了している世代でもある。 では、なぜこのクルマに惹かれるのだろうか? ■「自分が生まれたとき、そこにアスコットがあったから」25歳で4台のアスコットを手に入れたオーナー像 「自分が物心ついたとき、既に実家にはホンダのアスコット(CB1)がありました。自分がクルマ好きになったのも、そのアスコットがきっかけで今に至ります。免許を取得し、実家のアスコットを受け継いだのですが、そのドナーのために白いアスコットを購入。さらに、以前から欲しいと思い続けてきたこのイノーバを購入しました。最近ではもう一台ドナーとしてアスコットを購入しています」 柔らかな口ぶりで語るさいとうさんだが、愛車遍歴のすべてがアスコットシリーズという一途さと行動力に本気度合いが窺い知れる。 「1歳の頃にはミニカーで遊んでいたそうですが、自分が覚えている限りでは3歳くらいで“うちのアスコットはなんてカッコいいんだろう...”と思うようになっていました。そんな気持ちが20年以上どんどん大きくなって現在に至っています」 ▲当時はまだ採用例が少なかったキーレスエントリーはドアノブにリモコンの受光部がある オーナー自身の愛車遍歴としては3台目となり、すべてがホンダのアスコットシリーズだ。 取材時は所有してからは約半年。 購入経路は、同じくCB型のアスコットに乗っているオーナーさんが手離すという話を耳にし、個人売買という形で所有することになった。 複数オーナーが所有してきた個体だが、現在の距離は約65000kmだという。 生産から30年が経過したクルマとしては少ない部類といえよう。 複数台を所有するさいとうさんだが、イベントの他にも日常での出番も多く、使いやすい一台になっているという。 ▲純正オプションの空気清浄機。エクステリアへと魅せるデザインがカッコいい。今探すと見つけるのが大変な逸品といえよう 「街中に出ると、イノーバは普通のアスコットに比べて不思議と視線を集めるクルマです。最近ではあまり見かけない車体の色だったり、ヘッドライトと一体型のフォグランプの光り方、字光式のナンバープレートなど合わせ技で目を惹いているのかもしれませんね」 ▲フォグとハイ/ロー、ウインカーが一体のヘッドランプ。同社のスペシャリティクーペ、プレリュードと似たグリルのデザインもイノーバがスポーティな性格であることを印象付ける 古くて珍しい、という理由だけではなく、車両自体の個性やスタイリングによって注目を浴びる。 登場から30年が経過しても強いキャラクターが息づいている事を話を伺って改めて感じた。 最後に今後、イノーバとどう付き合っていきたいかを伺ってみた。 「稀に天然個体のアスコットを目撃した例を知人を通じてごく稀に聞くのですが、自分はそういった個体を街中で見かけたことは一度もないんです。既に現存する個体もかなり少なくなっているはずなので、エンジンが動く限りは純正の姿を保ちつつ後世に残していくことができればいいな、と思っています」 好きなクルマを追い求め、それを所有できる。 なんて素晴らしいことだろう。 それがどうしても欲しかった一台となればまた格別のことだ。 周りに同一の車種がいなくても、分かり合える仲間がいる。 こうして将来へとクルマたちが一台でも多く残っていく姿を窺い知れるのは、ひとりの旧車ファンとしてもとても嬉しい気持ちになるインタビューとなった。 これからもアスコット、そして多くのクルマに触れ、さいとうさんの世界を深く追求していってほしい。 [ライター・撮影/TUNA]
今から25年前の1997年、平成9年に中古車販売店の営業の仕事をスタートした筆者。 当時、新人セールスの筆者でも月に10台は売れた時代でした。 しかし、その販売スタイルを一新すべく、強行突破で始めたのが70スープラ専門店。 これは大当たり!だったのですが、トヨタ車は壊れないのでユーザーとの接点が希薄になり、パタリと売れなくなったのです。 そこへ、たまたま下取りで入ってきたのが真っ赤な元年式のフェアレディZ(Z32)。 直観的に「これがおそらくラストチャンスだ!日本一のZ32専門店を作るぞ!」と迷いなく決断し、Z32専門店に転換。 再スタートを切ることとなったのです。 (前回のエピソード)■お調子者営業マンだった私が、Z32専門店を立ち上げるまで https://www.qsha-oh.com/historia/article/z32-omura-vol1/ ■なぜZ32専門店に急転換できたか? 当時、雇われていた会社は、東京と神奈川県に8店舗を展開する創業30年の中堅中古車販売店。 特に神奈川県は他社との競合が激しく、食うか食われるかの激戦区でしたから、早急な店舗作りが求められました。 幸い、その会社は店長会議で報告するだけでお店の方向性を決めることができたのです。 社長は数字には厳しかったですが、若い社員がのびのび働ける環境を提供してくれたのだと思います。 私も、ある一店舗を任せれていたので、そのお陰で思い切った店作りを夢見ることができたのです。 ■まず店構えを一新し!Z32を大量仕入れ!派手に宣伝! Z32専門店をやると決めた以上、とにかく店構えが大事です。 それまでのイメージを一新するため、自分で看板をデザインし、一気に交換しました。 これでもう後に引けません。 車種変更もできません。 逃げ道がないよう、自分で自分を追い込んだのです。 同時に、自ら関東・東海の主要オークション会場に出向き、Z32を買いまくって、展示場全体をZ32で埋め尽くしました。 こうしてあれよあれよという間に、Z32専門店のできあがりです。 ショールーム付きで、ピットも併設された立派なお店になりました。 国道16号沿いで立地も最高。 通りかかりの人が、その圧巻の光景に目を奪われたことでしょう。 当時、宣伝に一番お金をかけたのが、雑誌「カーセンサー」でした。 月に2回、カラー見開き2ページで、掲載料は50万円くらいだったと思います。 まだホームページがない頃ですから、とにかく雑誌に派手に露出することが重要だったのです。 さぁ、これで準備万端!ここまでは順調!後は、売るだけです! ■軌道に乗るまでは、記憶に残らないほどの忙しさ! 当初は2人しかいませんでしたので、とにかく忙しい! 軌道に乗るまでの3年間は、ほぼ不眠不休でした。 人間、意外と頑丈ですね。 当時はまだ30代前半でしたので、気力だけで頑張れました。 ただ、何度とか神経痛になりましたが・・・。 その忙しさといえば、仕入れたクルマをその日のうちに磨き、ピッカピカに仕上げて次の朝には並べる。 フロントガラスには、そのクルマの装備や特長を書いてカラフルなイルミネーションを貼る。 週末の前日は、何時になろうと全車綺麗に洗車する。 カーセンサーの原稿は、30台分を手書きで作る。 売れたクルマは、自分で陸運局まで出向いて登録し、納車準備をする。 時には、遠方へ納車も・・・。 頭を使わず、体を使った仕事が多かったように思います。 不思議なのは、その頃の記憶が殆どないんですよね。 ■売ればクレームの嵐!整備の重要性を痛感! 努力の甲斐あって、売れはじめるのは早かったです。 ところが、ろくすっぽ整備もせずに納車していましたので、いきなりクレームの嵐。 70スープラのときとは大違いです。 70スープラは、ご納車後故障もなく、何の不安もなく売っていましたので。 特に多かったのが、「エンジンが止まる!」「エンジンがかからない!」という致命的なものでした。 「厄介なクルマを始めてしまったなぁ」と、後悔先に立たず。 Z32のウィークポイントも知らずに、いいことだけいって売っていましたので、いきなりしっぺ返しがきました。 どうやら、パワートランジスタという部品がダメらしい。 3万円(今は5万円)と高価でしたが、これだけは事前に交換して納車することにしました。 整備の重要性を感じた瞬間です。 これが、整備にも力を入れるきっかけになったわけです。 その後、専属のメカニックを置くようにして、少しずつ整備体制も整えて行くようになったのです。 ■専門店は目立ったもの勝ち!有名になって有頂天に! しかし、当時はまだカスタムやドレスアップが流行っていた頃。 各メーカーから多種多少の魅力的なパーツがラインナップされていました。 優先すべきは、いかに派手するか、格好良くするかです。 メンテナンスは二の次です。 広告塔のデモカーはどこよりも目を引くように仕上げました。 さらに、・雑誌には一番目立つ広告を!・オリジナルパーツも豊富に用意!・イベントにも出まくる!・メンテナンスはどこよりも安く!・極めつけは、エンジンオイル交換永久無料! 集客率を上げるために、思いつくことはすべてやったのです。 ネットの普及に伴って、ホームページでリアルタイムな情報を提供することも徹底していました。 専門店は目立ったもの勝ち! 他社の追従を許さず、ライバルが現れても、どこ吹く風。 飛ぶ鳥を落とす勢いで、快進撃は続きます。 有名になって完全に有頂天になってしまうのです。 ■転落した専門店を救った東京オートサロンの出展! ところが、私の独りよがりでお店を作ってきたので、他のスタッフが付いてこれるわけがありません。 私以外、Z32好きというわけではありませんでしたので、熱量の差が違いすぎます。 接客も整備もクレームが増えて、ネットで悪評が広がり、それまでの勢いに陰りが出はじめたのです。 いつの間にか、ポツンと裸の王様。名ばかりの専門店になっていました。 さて、どう立て直すか? 起死回生を狙ったのが、東京オートサロンの出展です。 ショップならどこでも憧れるクルマの祭典です。 今までの集大成ともいうべき究極のデモカーを作って出てみようと決意したのです。 これでもかというほどお金をかけました・・・。 結果、大反響をいただき「普通の中古車屋さんが、ついにここまで来たか!」と、成功した実感を味わったのを思い出します。 ■10年間やってきた専門店がいきなり消滅!まさかの独立へ! しかし、その達成感は、燃え尽き症候群の引き金となり、一気に気力が失せたのです。 何とか勢いでここまで来ましたが、その先のビジョンが見えなくなりました。 売上目標や月販30台のノルマや数字のプレッシャーにも潰され、精神的に追い込まれていたので、しだいに辞めたいと思うようになっていたのです。 元々、営業が性に合っていませんでしたし。 そんな中、追い打ちをかける人生最大の転機が訪れました。 雇われていた会社が計画倒産したのです。 今まで築き上げてきたものが、一瞬にして崩れ落ち無職に。 すぐに頭によぎったのは「今までのお客様をないがしろにして逃げるなんてことはできない」という想いでした。 辞めたいと思っていたのがまるでウソのようでした。 解放感と使命感と不安感がブレンドされた今までに味わったことのない独特な気分の中、まさかの事態に戸惑っている暇もなく独立を決意することに。 こうして、10年やってきたZ32専門店は幕を閉じ、新たなステージへと進むことになるのです。 [つづく] [ライター・撮影/小村英樹(Zone代表)]
■手作りの6輪F1タイレルP34とは? 茨城県水戸市にある「カスタムビルド&レストア WATAHIKI(以下、CBR WATAHIKI)」代表の綿引雄司氏が、仕事の合間を縫って手作りで製作している、6輪が特徴的なF1マシン「タイレルP34」。 その完成度の高さから、ネット上ではタイレルP34のコンプリートマシンを綿引氏が所有していると誤解されることもしばしばだ。 また「タイレルP34のレプリカ」と評されることもあるが、綿引氏独自の解釈で製作された箇所も少なからずある。 そのため、忠実なレプリカというわけではない。 つまり、この「レプリカ」という表現がこのマシンに当てはまるかどうかは人それぞれの解釈に委ねたい。 むしろ、イベントやCBR WATAHIKI(事前にアポイントを取れば実物を見せてくれる)に赴けばホンモノさながらのタイレルP34が間近で観られるのだ。 この事実に素直に感激し、喜ぶべきなのかもしれない。 製作者である綿引氏によると、このF1マシンが存在することは、タイレルのルーツでもあるケン・ティレル氏のご子息、ボブ・ティレル氏も把握しているという。 しかも、ボブ・ティレル氏は好意的に受け止めてくれているとのことだ。 ■製作者のCBR WATAHIKI代表 綿引雄司氏とは? 綿引氏の父親が代表を務めていた、60年近い歴史を持つ「巴自動車商会」のカスタムビルド・レストア部門として設立されたのが「CBR WATAHIKI」だ。 その代表を兼ねるのが綿引雄司氏というわけだ。 「カスタムビルド&レストアWATAHIKI」では、クラシックポルシェをはじめとする国内外のクルマ(主にクラシックカー)の鈑金修理・カスタマイズ・レストアを行っている。 綿引氏ご自身がスーパーカー世代であり、その時代を象徴するような国内外のスーパーカーが工場内に佇んでいる。 ランボルギーニ ミウラやロータスヨーロッパ、ポルシェ911や914など・・・。 スーパーカー世代にとってはこれだけでヨダレものの光景といえるだろう。 しかも、むき出しのフレームの個体もあり、ここでしか観られない姿という点においてもかなり貴重な光景だ。 これらの名車が工場内にあるということは、綿引氏の実力を象徴する何よりの証であり、タイレルP34の製作で得たノウハウがスーパーカーの復活にも一役買っているに違いない。 実は、GGF-T代表・赤間 保氏が企画した「あひるのジェイ プロジェクト」の一環として、綿引氏に製作が依頼されたのがランボルギーニ イオタのオブジェだったのだ。 2019年、オブジェとして完成させた作品をイタリア本国「ムゼオフェルッチョランボルギーニ」にて展示され、現地でも話題となった。 その後、トリノ国立自動車博物館に収蔵後、現在はフェルッチョ・ランボルギーニ博物館にて保管されているという。 まるで漫画や映画のストーリーがそのまま現実になったかのようなロマンすら感じさせる。 その模様はGGF-Tのブログでも紹介されている。ぜひご覧いただきたい。 ●イタリア トリノ国立自動車博物館を「アヒルのジェイ」がジャックしました! https://www.ggf-t.co.jp/blog/2020/03/16/124819 *YouTubeで動画を配信している「ぺーさんxyz」氏が、イオタの製作過程を詳細にまとめた素晴らしい動画を9月15日に公開した。こちらも超がつくほど必見だ。 板金職人の技炸裂!アルミ板叩き出しでランボルギーニ・イオタを製作するまで【前編】https://www.youtube.com/watch?v=hvAf5PfcSJg ■手作りの6輪F1タイレルP34の進化 ご縁あって、ここ数年間、綿引氏が手掛けるタイレルP34の製作過程を見る機会に恵まれた。 このマシンが、アルミの板から生み出された何よりの証となる画像をご紹介したい。 本来の業務が終わったあと(つまり夜間だ)や、休日を返上して作業が行われてきた。 綿引氏がハンマーでアルミの板を叩き、鋼材を切り、それらを溶接する・・・。 気の遠くなるような作業のこの繰り返しでタイレルP34の美しいフォルムが「生み出された」のだ。 文字通りゼロから創り上げているのだから、図面も綿引氏自ら引き、現物合わせで修正を行い、トライアンドエラーの結果がこのタイレルP34というわけだ。 綿引氏が手を止めれば、そこで作業も止まってしまう。 そして、スズキのGSX1300Rハヤブサの1.3L直列4気筒エンジンがトランクアクスルごとシャーシに載り、ブレーキが組み込まれ、ステアリングとサスペンションアームが接合される・・・。 クラシックミニのフロントハブ(10インチキット)を使えば10インチで収まると想定し、見事に的中。 そしてステアリングのギアボックスはポルシェ911、ナロー時代のものを流用。 リアホイールはスペーサーやアタッチメントを組めば使えるだろうと判断し、センターロックで固定するF3000用のものを装着。 そして、エンジン&ミッションはGSX1300R ハヤブサのものを流用。 デフはスズキ カプチーノ、ドライブシャフトおよびリヤハブはランチア デルタ インテグラーレ用のものを流用。 リアサスは、スズキのGXS-S1000というネイキッドタイプのバイクのモノサスの長さがネット上に記載されていたのを確認したうえで流用しているという。 このスペックに目を通していただければお察しいただけるだろうが、F1タイレルP34は飾るためのクルマではない。 当時のイメージさながらにクローズドコースを掛け抜けるためのマシンなのだ(ただし、綿引氏がタイレルP34を駆って本気でサーキットを攻めるために造られたものではない、ということも追記しておきたい)。 ■1976年仕様のカウルが完成 1977年仕様のタイレルP34が完成したあと、綿引氏は1976年仕様のカウル製作にも本格的に着手した。カラーリングやカウルのシルエットが異なるため、印象が激変する。 これが現時点での仕様だ。 ここからいちどタイレルP34はバラされ、細部の微調整やドライサンプキットの取り付けなど、走るための身支度を行っている真っ最中だ。 取材時にネットオークションで入手したというGSX1300R ハヤブサ用ドライサンプキットを拝見したのだが、現物だけで取扱説明書はなし。 手探りでタイレルP34に組み込むことになる。 文字どおりの現車合わせ・現車セッティングだ。 この様子が綿引氏のYouTubeチャンネルでも公開されているので、ぜひご覧いただきたい。 ●タイレル 隼用ドライサンプキット取り付け前編 https://www.youtube.com/watch?v=GhHrUwFejgI この記事を編集している最中に、綿引氏から株式会社中村機械(富山県)が手掛けたアルマイト仕上げのホイールも到着とのことで画像が送られてきた。 綿引氏より掲載の許可をいただいたので、以下にご紹介したい。 お気づきのように、これで完成・・・ではなく、これから先もまだまだ進化していくのだ! ■これから定期レポートをお届けします! イベントで展示するときなど、専用のステップ(これも綿引氏の手作りだ!)を用意して、運転席に座れるようにしている。 コクピットに座れば、その視界の低さに驚くだろう。 老若男女問わず、F1パイロットの気分が味わえるのだ。 今後も、タイレルP34の製作風景を定期的にお届けする予定だ。 ぜひご期待いただきたい! ■[追記]9月18日夜、綿引氏から送られてきた最新情報 現時点でタイレルP34はバラされ、フレームの塗装が行われたとのこと。最新画像が送られてきたのでご紹介したい。 ■巴自動車商会/カスタムビルド&レストア WATAHIKI 店舗情報 住所:〒310-0912 茨城県水戸市見川3-528-2TEL:TEL/FAX 029-243-0133URL:http://cbr-watahiki.comお問い合わせ:http://www.cbr-watahiki.com/mail.html ●綿引氏のYouTubeチャンネル"cbrwatahiki" 「アルミのイオタ」および「タイレル P34」の製作風景も紹介されていますhttps://www.youtube.com/user/cbrwatahiki/featured ■Special Thanks! オートランドテクノ ●営業時間9:00~18:00(12時〜13時はお昼休み)*ナイター営業は貸切のみとなります。 ●住所:〒315-0028 茨城県石岡市半の木11210-1●TEL/FAX:0299-23-4548●E-Mail:autoland81@techno-as.com●URL:http://www.techno-as.com●Twitter:https://twitter.com/autolandtechno●Facebookページ:https://www.facebook.com/autolandtechno/ *レンタルカートあり!http://www.techno-as.com/charge.html 株式会社中村機械 ●氷見本社:〒935-0037 富山県氷見市上泉145-1 TEL 0766-91-5585●射水 Factory:〒939-0281 富山県射水市北高木465-1 TEL 0766-95-5755 ●URL:https://nakamurakikai.co.jp ●主な事業内容・各種機械装置の開発、設計、製造・各種機械加工部品製造(主な取引先…電子・電気部品関連、食品・医療関連) [ライター・カメラ/松村 透・画像提供 綿引雄司氏]
■バブルの時代を体現するタイムマシーン 「平成レトロ」というキーワードが世の中に現れて久しい。 平成の期間は30年と113日もあるのだから、その間でさまざまなジェネレーションが存在することは容易に理解できる。 しかし、こと”レトロ”となると、昭和の境目にあったバブル期に思いを馳せずにはいられない。 今回取材をさせていただいたオーナーのrainforceさんもそんな一人。 1991年生まれの31歳で、バブル時代の生活は未経験だ。 対して所有するインテグラは1990年に生産された個体で、その時代を生きた生き証人のようなクルマだ。 オーナーよりも一歳年上。 平成から令和へと、時代を越える姿を覗いてみよう。 ■かつての家車と姿を重ねたどり着いたインテグラ ▲大きなガラスが特徴的なリアビュー。後づけのダイバーシティアンテナとハイマウントストップランプがマッチしている。 幼少期から自他ともに認める車好き少年だったrainforceさん。 そんな彼のクルマ好きを形成したのは、家車として両親が所有していたDA型インテグラだ。 フリントブラックメタリックの4ドアハードトップで、子供心にも「かっこいい!いつか乗ってみたい!」という気持ちが芽生えたそうだ。 rainforceさんが10歳の頃、その個体はミッションのトラブルによって買い換えることになってしまう。 それでもインテグラへの想いは心の片隅に置いたままで、少年はクルマ好きの青年へと成長していく。 免許を取得し、初めて所有した愛車は学生時代にヤフオクで購入した10万円の三菱・パジェロミニ。 自らの意思でどこへでも行ける喜びは自動車への興味へとさらにのめり込むきっかけとなった。 就職後はプジョー・106 S16を購入。 そのパワーとハンドリングは、ワインディングをキビキビと駆け抜けるのにうってつけの1台だ。 現在でも所有するほどのお気に入りの一台となる。 ただ、そんな相棒をよそに心の片隅で燻っていたインテグラへの想いが大きくなっていくのを無視することはできなかった。 「106を所有しながらも、もう一台増車したいという気持ちを常に持ち続けていました。 90年代のクルマはモデルを問わず市場にある個体も数が減り、値段も高騰し始めているので買うならラストチャンスが迫ってきていると感じていました」 ■クルマ好き青年が心に抱き続けた珠玉の一台 そんな念願が叶い、手に入れたインテグラは1990年車。 インテグラシリーズとしては2代目、前期型のXSiでホンダ初のVTECエンジン搭載車だ。 インテグラは先述の通り、4ドアのハードトップと3ドアのクーペが存在し、サルーン的なフォーマルさやスペシャリティカーとしての性格も強い。 今となってはコンパクトなパッケージングだが、その実レッドゾーンは8000回転からのB16Aを搭載し、リッターあたり100psを出力するホットな心臓を持つ。 「DA型インテグラはリリースから既に33年が経過していますが、走りにおけるプリミティブな部分においてはこの時代で既に完成形に近いのでないかと感じます」 rainforceさんが語る通り、装備やパッケージングに不足は感じられない。 それどころか控えめなのに洒脱なインテリアの雰囲気づくりや、低いノーズにグラッシーなキャビンの構成は近年のクルマとは異なる体験をもたらしてくれるだろう。 それまで106を所有するカーライフのなかでは比較的スポーティな運転を楽しんでいたというが、インテグラと付き合ううえでカーライフに少し変化があったという。 「今まで106は良き相棒としていい意味でラフに乗っていた感じが強かったのですが、インテグラにしてからはクルマの状態についてよく気にかけるようになりました。洗車時にもタイヤの空気圧やエンジンの調子を確認するようになり、細かいところに気を配るようになったと自分でも感じています」 ■時代感をディテールに宿しながら走るムードのあるドライブ 購入時は約85000kmの上物の個体だ。 購入から1年間で約11000kmを走行したという現在も車体は隅々まで磨かれ、その美しさは新車から間もない頃の姿を想像するのは難しくない。 車体自体は基本的にオリジナルを保ちつつもインテグラが生まれた時代を反映し、ダイバーシティアンテナやハイマウントストップランプの装着を行いモディファイされている。 タイヤは復刻版のアドバンタイプDとBBSのホイールで引き締まった印象だ。 内装はオーディオ類がこだわりポイントだ。 アルパインのデッキとイコライザーとアンプ、スピーカーは同年代のもので揃え、CDプレーヤーのディスクマンと車載のテレビ、芳香剤のポピーやカップホルダーなどのアクセサリー系が置かれトータルコーディネートされている。 「車内の雰囲気づくりとして、目に見える部分に現代的なものをなるべく置かないように心がけています。インテグラを所有し始めてからは夜の都心や首都高をゆったりと走らせるのがあっていると感じ、そんなドライブに出かける機会も増えるようになりました」 ▲内装にも時代を感じさせるアイテムを配置。色味なども揃えられ、雰囲気を全体的に高めている。 いざとなればVTECが目を覚まし、その本性を覗かせるのもインテグラも、情緒的な雰囲気を纏い大人な走りができるのもまた魅力といえるだろう。 最後にrainforceさんに今後の愛車への付き合い方について伺ってみた。 「ホンダ初のVTEC搭載車ということで、文化財…とまでは行かなくてもできるだけ長く楽しめるようにしたいと思います。とはいえ、しまい込むことはなく適度に楽しみながら動態保存していきたいと感じています」 幼少期の憧れから、時代感を閉じ込めたタイムマシーンへ。時代を超えていくインテグラがこの先もエネルギッシュに走っていく姿を期待してしまうものだ。 [ライター・撮影/TUNA]
1台のクルマに乗り続ける理由。 カーライフは十人十色だが、最愛の1台と長きにわたって過ごしていくカーライフは憧れであり、理想のカーライフというクルマ好きは多い。 今回は、マツダ ポーターバンに乗り続けるオーナー古谷啓通さん(42歳)のカーライフをご紹介しよう。 祖父が社有車として愛用していた個体を、17年前に受け継いだ古谷さん。 古谷さんの祖父は2012年に他界されているが、ポーターバンはその後も手厚いメンテナンスによって「現役」だ。 県外へのイベントも自走で参加。現在の総走行距離は22万キロを超えている。 このクルマにオーナーの古谷さんがどのように接しているか、そしてどんな工夫をしながら愛車を維持しているかを紹介しながら、「家族の一員」ともいえる愛車とのストーリーを紐解いていこう。 ▲「全塗装から10年以上が経過して程よくヤレてきました」と古谷さん。商用車は「使い込まれた道具感」も魅力のひとつ ■「マツダ ポーター」のプロフィール マツダ ポーターは、東洋工業(現マツダ)が生産していた軽商用車だ。それまで生産されていたB360(通称Bバン)のフルモデルチェンジ版として1968年に誕生。 ボディタイプは「バン」と「ボンネットトラック」の2タイプ。 エンジンはDB型4ストローク4気筒OHVを継続採用していたが、1973年のマイナーチェンジにてAA型2ストローク2気筒ロータリーバルブエンジンに換装されて後期型となり、1976年に生産終了した。 この間の1975年には、軽自動車のナンバーが白い小判ナンバー(小板ナンバー)から現在の黄ナンバーとなった。 1976年には軽規格が360㏄から550㏄へと変更されているが、ポーターはマイナーチェンジのみで、規格変更は行わずに継続生産された。 なお、1969年にはキャブオーバー軽トラックとして「ポーターキャブ」が車種追加されているが、こちらは1977年に三菱製のエンジンに換装されるビッグマイナーチェンジを行って550㏄の新規格に対応し、最終的に1989年まで生産された。 ▲ブリヂストンのとある輸出用バイクのエンジンにその源流があるといわれるAA型2ストロークロータリーバルブエンジン。35馬力というパワーは当時の軽商用車部門で最強を誇ったが、排ガス規制の影響で33馬力から32馬力とパワーダウンを余儀なくされた ▲リアゲートはベンチにも!? 背後の「ござ」は古谷さんの祖父の代からの愛用品。工具などの目隠しとして使われていた[写真提供/古谷啓通さん] ■ルーフキャリアはこの個体のアイデンティティ この個体は、古谷さんの祖父が営んでいた「古谷電気商会」の社有車だった。 仕事の相棒として屋号をペイントすることなくオリジナルのまま愛用していた。ボディカラーは「シーライクブルー」と呼ばれる純正色だ。 古谷さん: この「シーライクブルー」という色ですが、最終型の「デラックス」以外、マツダで採用された車種・グレードが今のところわかりません。 2スト以降の「ポーターバンデラックス」のカラーはずっと「マーチブルー」だったのですが、生産自体1年に満たない最終型のために、わざわざ専用色を作るのかな?と考えてしまいます。ポーターの謎のひとつです(笑)。 ▲古谷さんの祖父は1970年から2年おきにポーターバンを買い替え、計4台乗り継いでいた ──この個体の最も大きな特徴は「ルーフキャリア」を取り付けている点だ。古谷さんの祖父が取り付けたもので、ハシゴなどの仕事道具を載せていた。 古谷さん: ルーフキャリアがついていないと「このポーター」ではないんです。祖父が歴代のポーターに付け替えるたび、そのボディカラーに合わせていました。このルーフキャリアを修復する際に塗装を剥がしたとき、代々のボディカラーが層になっていました。 ■物心ついた頃から一緒に過ごしてきた ──古谷さんの生まれる前からポーターバンは家にあり、暮らしに寄り添ってきた。古谷さんのクルマ観や好みにもこのクルマが深く関わっているのではないだろうか。古谷さんの祖父との思い出、そして幼少時代のポーターとのエピソードを伺った。 古谷さん: 祖父の運転免許は360ccの軽自動車限定免許でした。しかも家の車庫への通路は狭く、360ccの軽自動車のボディサイズでないと入れなかったということもあり、このポーターバン以外に乗り換える新車もなく、結果ポーターに特化したドライバーになっていました。 ▲排気量360ccまでの軽自動車が運転可能な軽自動車限定免許。1968年に普通自動車免許に統合された 古谷さん: 「ポーター以外は違和感があって乗れない」というレベルの祖父でしたが、その代わりポーターに乗れば暗闇でも鍵穴を探す事なくキーを差し込んでいましたし、車両感覚もまさに身体の一部であるかのように幅寄せ、すり抜けを行っていました。 免許を返納する頃でも横に乗っていて運転に不安を感じる場面はなかったですね。高齢による反応の衰えをポーターに特化していたことによる「慣れ」がカバーしていたのかもしれません。 ▲古谷さんの祖父が乗っていた頃の1枚。どんな狭い路地も通り抜けていた[写真提供/古谷啓通さん] ──幼い頃の思い出で、とくに印象に残っている出来事は? 古谷さん: 僕は物心ついた頃から、このクルマの助手席に乗っていました。助手席にハンドル付きのチャイルドシートみたいなものを付けてもらって、運転のまねをしながら育ったんです。 我が家はとりわけクルマ好きの家庭ではありませんでしたが、クルマに興味を持った背景はポーターバンの存在が大きかったかもしれません。どこに行くにもこのクルマと一緒でしたね。 僕は幼い頃によく発熱していたんですが、寝込むたびに祖父の運転でポーターバンの後部座席に寝かせられて病院へ連れていってもらっていました。あれは雨の日だったのだと思うのですが、熱でほてった頭に車体のタイヤハウスの車内側の鉄板を当てていると、それがひんやりして気持ち良く、水しぶきの「シャー」という音と共に心地良かったなという記憶があります。 両親がお見合いをした日も、祖父が父親を乗せてお見合い会場まで送迎したという話ものちに聞きました。 ▲マツダのファンイベントにて[写真提供/古谷啓通さん] ──古谷さんが「クルマ好き」としてポーターを意識したのはいつだったのだろうか? 古谷さん: クルマの知識が増えてきた中学生になりたての頃からですね。いてあたりまえの存在なのに、生活圏で同じクルマを見ることがない…。そこから「このクルマはどういうクルマなんだろう?」と興味を持ち始めました。 しかし、ポーターはいわゆる“名車”ではなく“迷車”の類ですから、クルマ雑誌を読んでもなかなか誌面で見かけることはありませんでした。 この個体がマツダ ポーターバンの最終型だと知るまでに随分かかってしまいました。 ▲歴代ポーターの新車注文書を保管。フォグランプや泥除け、バイザーなどのオプション品は今も現車に付いている ▲古谷さんがコツコツと収集してきた当時のカタログ。情報が少ない車種のため、カタログや自動車誌の記事はコレクションとともに貴重な情報源 ■古谷さんの祖父が見つけてきた「弐号機」の存在 ──ポーターバンを受け継ごうと決めたのは、古谷さんの祖父がもう1台のポーターバンを手に入れ、2台体制になったことがきっかけだったという。 古谷さん: 2005年から2006年にかけての話で、祖父もまだまだ現役だった頃です。ポーターバンも現役の仕事車だったのですが、ある日の仕事帰り、走行不能になってしまいました。フロントの足回りの故障でした。 当時、整備に出していた店からは「部品がないので直せません」と宣告されてしまいまして…。祖父はポーターしか乗れないし、「引退するしかない」とまで言い出してしまったので、部品取り車のポーターバンを探しに探して、なんとか修理はできました。 ところが…修理をしている間に、部品取り車を見つけた車屋さんで、祖父が別のポーターバンを見つけていたのです。気がつけば、そのポーターバンが車庫に収まっていました(笑)。 祖父によると「仕事の相棒に長く寝込まれたら困るから、これからは2台体制を取ることにした。ワシは主に青いの(マーチブルー)に乗るから、ポーターバンが直って戻ったら、後はお前が保守管理するように!」とのことでした(笑) ▲自宅の車庫に収まるマーチブルーのポーターバン デラックス「弐号機」(右)。看板は当時モノでネットオークションにて入手。[写真提供/古谷啓通さん] ■「初号機」にポーターキャブのエンジンを移植 ──維持と管理をまかされたことで、実質マイカーとなったポーターバン。2台になったことで当時は「初号機」「弐号機」と呼び分けていたという。このとき、古谷家は3台の「ポーター」を所有していたことになる。もともと乗っていた「初号機」、2台目の「弐号機」、そして大型荷物の運搬専用だった軽トラックのポーターキャブ(PC3A型)があった。 古谷さん: 当時、走行距離が16万キロに達していたので、「初号機」のフロント足回りの修理に使った部品取り車のエンジンに載せ換えたんです。 しかしあまり調子が良くなく、祖父との協議の結果、主に冷蔵庫と洗濯機を運ぶ時のみに使用していたポーターキャブのエンジンを移植することにしました。 このポーターキャブも幼い頃、ジャングルジムのように、よじ登って遊んでいた思い入れのあるクルマだったのですが、断腸の思いでした。 ▲断腸の思いでポーターキャブのエンジンへ換装(手前が元々は部品取りのポーターに載っていたエンジン、奥がポーターキャブのエンジン)[写真提供/古谷啓通さん] ──エンジンのあとは、ボディのレストアにも着手した古谷さん。熟練した技術をもつ鈑金職人のもとで、ポーターバンは修復されることとなった。 古谷さん: クルマ仲間のネットワークで、ボディの鈑金塗装が得意な職人さんを紹介してもらいました。職人さんからは「確かに錆びて大穴も開いているけど、肝心な所は風が通っていたから腐ってない。大丈夫、直るよ!」と言っていただき、あの時は本当に嬉しかったです。 ボディは特に、左後部座席の足元フロア部分(リーフサスの付け根が取り付けられている部分)がボロボロに腐食していたので、患部を切除し、新たに鉄板を鈑金加工してフロアを新規作成しています。その他ドアの下部などもほぼ作り直されています。 ▲腐食部分を切除し、鉄板を叩いて新たに作成[写真提供/古谷啓通さん] ▲パーツリスト、取扱説明書、整備解説書は修復時に重要な資料となる。流用部品の手がかりにもなるため、旧車を所有するならできるだけ揃えておきたい ■祖父との別れ。そして「弐号機」の巣立ち ──古谷さんとポーターバンにとって、2011年から2012年にかけては大きな転機となった。古谷さんの祖父が2012年に他界したことにより、手元には形見として2台のポーターバンが遺された。 古谷さん: 2011年に祖父が免許返納したことにより、「弐号機」も僕の名義となりました。2012年に祖父は他界しました。 2台とも「形見」となったわけですが、色や細部に違いはあれど同じポーターバンです。つい「初号機」ばかり乗ってしまい、「弐号機」は気がつけばバッテリー上がりを起こしていることもしばしば。維持していくにもどうしたものかと思案していたところ、知人を介して「ポーターバンを譲って欲しい」と、一人の青年が志願してきたのです。 彼はイベントで、クルマ仲間を介して紹介されました。ポーターバンに乗りたい動機を尋ねてみると、「幼い頃、祖父がこれと同じ黄色ナンバーで青色のポーターバンに乗っていて…」と、どこかで見聞きしたような動機でした(笑)。年式、グレードまで同じであることも含めて、ぜひとも譲って欲しいとのことでした。 メンテナンス面も、彼と共通のクルマ仲間の協力があれば安心かなと判断して、「弐号機」を彼に託す事に決めました。引き取りの時は、彼の祖父も立ち会い、共通のクルマ仲間たちのサポートを受けながらも自走で隣県に巣立って行きました。 巣立って行く当日はやはり名残惜しくて、途中までポーターバンに乗って見送りましたね。 ▲「弐号機」の新オーナーとは今も交流が続く。「弐号機」も快調だという[写真提供/古谷啓通さん] ■オリジナルを維持するより「公道現役」でいること ──ポーターバンを維持していく上で「フルオリジナルの維持にはこだわらない」という古谷さん。純正、他車種、社外品を流用してのモディファイも施している。 古谷さん: ポーターは商用車なので「実用こそ現役の証」と考えています。なので、モディファイのテーマは「実際の生産終了後ももしポーターバンが継続生産されていたとしたら?」と、「技術者だった祖父がこの改良を良しとするか」です。オリジナルイメージを崩さないことを心がけ、合法の範囲でモディファイしています。 例えば、ステアリングは仲間から譲っていただいた、マツダの限定車「∞(アンフィニ)」用のmomoステアリングに。 車内側のドアノブ等は内装色に合わせて550cc時代のポーターキャブ用に。シートベルトは装着性を考えてELR式に。ハンズフリーフォンにも対応しています。 ▲サバンナRX-7(FC型)やカペラなどの限定車∞(アンフィニ)に純正装着されていたmomo製のステアリング ▲ポーターキャブのドアノブと持ち手を流用。レギュレーターハンドルは流用できなかったため、ブラックの純正品を色を合わせて取り付けている 古谷さん: 最近、丸目ヘッドランプにしました。光軸・光量ともに今の規準にあわせづらく、また、部品供給状況の悪化によって車検対応が厳しくなってきたため、純正のシールドビームをH4のバルブが使える汎用性のあるものにしました。 ただし、旧車らしさを求めて凸レンズにこだわっています。もしポーターが継続生産されていたら、コストダウンの結果、専用品だった純正シールドビームから、丸目の汎用ヘッドランプに替わっていたのではないかと(笑)」 ▲ヘッドランプは、同じマツダ車用のものを流用。もちろんオリジナルにも戻せる ▲12インチホイールはクルマ仲間から譲り受けた。「とあるクルマに付けるために注文された特注品」とのこと ▲ボディ修復時に復刻してもらった「マツダ」のデカール(右テールランプ横)や、商売繁盛を願う、地元稲荷神社の鳥居ステッカー(リヤガラス左上)も、商用車アピールには欠かせない ▲当時マツダ車を新車で買ったら付いていたオーナー名入りの厳島神社の御守も健在。こうした小物が残っているのも家族ワンオーナー車ならでは ■オーナーに合った「乗り方」まで伝授。頼もしい主治医の存在 ──「実用こそ現役の証」にこだわる古谷さん。使い勝手も走りも「実用性重視」の方向にチューニングしている。このようなチューニングをはじめ、部品交換や修理を行う「主治医」が、メカニックの西栄一さんだ。 古谷さん: 西さんとは2006年に参加したイベントで知り合い、以降頼もしい主治医的な存在です。普段と異なる音や匂い等の違和感、不具合、あるいは「こういう事できないかなぁ」という願望が出ると、必ず相談しています。 ポーターバンは西さんのチューニングによって、以前よりエンジン回転数を落としての80km/hでの巡航ができるようになり、遠方へ行きやすくなりました。その代わり登坂はちょっと苦労しますが、普段乗るのに問題はありません。 さらに、運転技術も教わっています。チューニングに適したシフトタイミングや、ABSのないクルマのブレーキング、シートポジションの重要さも教わりました。西さんと知り合ってから、ポーターバンが快調になっただけでなく「クルマを守ることは人を守ることに繋がる」ということも学びました。 ▲メカニックの西栄一さんはレーシングドライバーの経歴をもち、整備と走りの経験豊富。自身もマツダ シャンテとホンダ T360を所有し、ストックしておいたシャンテの部品をポーターバンに流用することも ──古谷さんは「西さんから『ご臨終』といわれたときがポーターバンの寿命だと思っている」という。いっぽう西さんは「どんなことがあっても直していきたい」と話す。古谷さんと西さんの間には、深い信頼と絆が構築されている。 ▲取扱説明書にある「推奨速度」を参考にしつつ、「この個体がどうしたら走りやすいか」を走行時の状況をふまえて考え、ポーターバンに適した乗り方を心がけているという ■「このポーターでないと駄目なんです」 ──古谷さんにとってポーターバンは、今はどんな存在なのか、あらためて尋ねてみた。 古谷さん: 祖父の形見であり、乳母車であり…もはや家族の一員なんですよ。「高齢車」なので祖父のように足車とはいきませんが、家にいるのがあたりまえで、乗りたいと思った時に乗って出かけられる、代わりのない存在です。 以前、こんなことがありました。ヘッドライトが車検をクリアできず、そのまま車検切れになってしまい、公道を走れない期間が半年ほどありました。 「そこにあるのに、乗って走れない」 あの状況は、僕にとっては耐え難いことだったと痛感しています。例え他のポーターに乗る機会があったとしても、きっと満足できなかったでしょう。ポーターという車種が好きというより「我が家のこのポーター」でないと駄目なんです。 もし、このクルマに乗れなくなったら次のポーターは探さないでしょうね。祖父はポーターに特化していましたが、僕は「我が家のポーター」に特化しているのですよ、きっと。 ■あたりまえに乗り、クルマを通じた繋がりを大切にしたい ──ポーターバンと今後、どう過ごしていきたいかを尋ねた。 古谷さん: 足回りの予防整備を準備中です。もし部品がない場合は、代用品か加工を考えなくてはなりません。仲間にも情報提供してもらったりネットで調べたりしています。 早めのトラブル対策と日常のメンテナンスで、祖父が乗っていたように、これからも「あたりまえ」に乗っていきたい思いがありますね。 ──維持していくうえで、とくに大切にしていきたいことは? 古谷さん: 人との繋がりです。「旧車の維持はおたがいさま」と思っていて、仲間同士の情報共有は本当に大事です。一人でできることは限られますが、オーナー各々ができることや知識を持ち寄り、なんとかしていけたらなと考えています。どんなクルマでもいつかは旧車になりますから。 ──「クルマも家族の一員」と例えられるが、まさに言葉どおりだ。共に仕事をし、家族の節目に寄り添い、新たな思い出を蓄積しながらポーターバンは唯一無二の存在となった。このさき年齢を重ねても、生活様式が変化しても、古谷さんとポーターバンとの付き合い方は変わらない…そんな気がする。「古谷家のポーター」は、今日も快調に走り続けている。 ▲「海の色」のポーターバンがシーサイドロードを走る ■古谷さんの宝物 ──最後に、古谷さんの宝物を紹介したい。ポーターバンを通じて縁のあった方から贈られた品々を見せていただいた。 ▲マイナーゆえにミニカーが存在しないポーターバン。クルマ仲間に木工やペーパークラフトのミニカーをプレゼントしてもらったそうだ ▲ペーパークラフトは仲間のお子さんの手作り。ちなみにそのお子さんは好青年に成長。現在は、共にクルマを楽しむ仲間となっているという ▲「弐号機」を託したオーナーから結婚祝いの御礼として贈られた美しい水彩画 [取材協力/吉備旧車倶楽部] [ライター・撮影/野鶴美和]
■名前:小村英樹(オムラヒデキ) ■職業/肩書き フェアレディZ Z32専門店 代表取締役 Z32一筋で二十数年になります。これからも他車種はやりません。実は、前職はコンピュータープログラマー/システムエンジニアでした。 ■現在の愛車 フェアレディZ32 最終型ZX・2by2・TバールーフZ32を5台乗り継いできた生粋のZ32好きです。 ■ご自身の性格をひと言で表現すると? 自分で言うのもなんですが、真面目で几帳面タイプです。人見知りで、営業マンタイプはありません。 ■好きなクルマは? 基本的にスポーツカーが好きですが、やっぱりフェアレディZ32が一番です。今でも世界に通用する究極のスポーツカーだと思っています。 ■憧れのクルマは? もっと綺麗で程度の良いフェアレディZ32最終型です(笑)。やはり、これに勝るクルマはありません。 ■旧車ヒストリアでどんな記事を書いてみたいですか? 旧車ブームの裏に潜んでいる問題や課題をお伝えできればと思っています。 この10年間で今の旧車達が遺るか危惧しています。今のままではダメです。 旧車オーナー様・オーナー予備軍の方に、ぜひ読んで頂きたいです。 ■その他なんでも・・・ 趣味は仕事で、年中無休で働いていますが、最近は写真撮影にハマっています。Instagramのフォロワー様1万人を目指し、毎日Z32の写真をアップしています。ストーリーには自然や景色など、季節を感じる写真をアップしています。音楽を聴きながらドライブしている時が、至福の時間です。 ■HP/SNS/YouTube等 ・ホームページhttp://www.Z32-Zone.com/ ・Facebookhttps://www.facebook.com/pages/Fairlady-Z32-Proshop-Zone/286263454768481 ・Instagramhttps://www.instagram.com/Z32_Zone.omura/ ・YouTubehttps://www.youtube.com/user/ZoneZ32 [ライター・撮影/小村英樹(Zone代表)]
■1.なぜ「多頭飼い」になってしまったのか? 多くの方が、「多頭飼い」という言葉をニュースなどで1度は目にしたことがあるはずです。 この言葉から連想するのはどちらかというとネガティブなイメージがあるかもしれませんが、今回は「ポジティブ(?)」な話題なのでご安心ください。 なぜなら、私が多頭飼いに「陥ってしまった」エピソードのご紹介だからです。 そもそも、クルマが勝手に増えることはないモノというはいうまでもありません。 では、なぜ増えたかというと、筆者自身、情が湧いてしまうと手放すことができない性格であるため、自ら招いてしまった結果だからです。 今回、勝手に増えるはずがないクルマが、いつの間にか(?)多頭飼いになっていた経緯をご挨拶も兼ねて紹介いたします。 ■2.これは運命!?巡り合わせの初愛車が嫁いできた! 筆者の初めての愛車は1992年式日産 パルサー GTI-R(RNN14型)。 運転免許取得のため教習所に通っていた17歳のとき、手元にやってきました。 馴れ初めは、高校時代の先輩が手に入れてから3か月足らずで廃車にするということで、菓子折りで譲っていただきました。 廃車にするのにもお金がかかる時代だったので、先輩としては引き取ってくれるだけ助かるわけです。 そして筆者も、格安で憧れのクルマが手に入ったわけですから、お互いにメリットがあったのです。 しかし、前オーナーである先輩が廃車にしようと考えていたくらいですから、それなりの不具合を抱えていたことも事実でした。 そもそも、廃車に至ったきっかけは「アイドリングしないでエンストする」というものでした。 これは、取り付けられていた社外品パーツが壊れていたのが原因だったようです。 引き取りに行った際にすぐ原因が判明。 応急処置を施し、筆者の父に運転してもらい、自宅に持ち帰ったのです。 実は、先輩から譲っていただく時点で他にも不具合を伺っており、「想像以上にお金がかかるから、駄目だと思ったらすぐに手放すように」と忠告されていました。 案の定、免許を取得し、パルサーGTI-R乗るにつれ、さまざまな不具合が表面化していったのです。 ただ、タダ同然で手に入れたこともあり「パルサーGTI-Rを買ったと思えば・・・」と考えて修理をしていたら、それなりの金額を費やす羽目に。 これこそが、「安くて素性の良くないクルマ」を手に入れた際に陥ってしまう錯覚なのです。 いわゆる「ダメ男と付き合う感覚」とは、こういうことなのではないかと考えてしまいます。 さまざまな不具合を抱えたパルサーGTI-R。もっとも深刻だったのはエンジンでした。 いわゆる「オイル上がり」の状態になっていたのです。 「オイル上がり」とは、エンジンの燃焼室にオイルが入って一緒に燃焼してしまう症状のことを指します。 この症状を直すためには、エンジンをオーバーホールするか、載せ替えるしかありません。 当時学生だった筆者に、エンジンの不具合を直すほどのまとまったお金はありません。 どうするべきか悩んでいる最中に、新たな「縁談」が舞い込んできたのです。 ■3.決断を迫られたすえ、増車する道を選んだ2台目 私が中学生だったころ(2000年代初頭)からインターネットが身近なものになりつつあり、ホームページを作っている方とも「掲示板」を通じてやり取りをすることがありました。 免許を取得する前からやり取りをしていただいた方々と、「オフ会」にパルサーに乗っていってお邪魔することもありました(やり取り時は別の車種でしたが)。 そこで知り合った方から、2台目の愛車となる1998年式 日産 HU14ブルーバード SSS-Zを譲っていただけることになったのです。 知り合った方の新しい愛車のお披露目会の帰りに、筆者のパルサーが不調になってしまったのです。 そんな折り、まだ嫁ぎ先が決まっていないブルーバードの話をいただいたのでした。 しかし、筆者は当時二十歳・・・。 実は幼いころからブルーバードは好きなクルマでした。 筆者の祖父は、ブルーバードを910型、U12型を2台、そして私と同じU14型と、幼少期からの記憶でも4台も乗り継いでいたことが影響しているようです。 事実、幼心にブルーバードは背が低くてカッコイイクルマだと思っていましたから。 ・・・というのも、我が家は筆者が物心ついたころから日産バネット(後のセレナ)というミニバンを乗り継いで育ってきた経緯があります。 時々乗せてもらうブルーバードは、バネットとは異なり、目線が低く、まるでスポーツカーのようでした。 現代のミニバンやSUVで育った子どもたちも、筆者のように「目線の低さ」にカルチャーショックを受けることで、セダンやスポーツカーに憧れを持つ日が訪れて欲しい・・・と、実体験を通じて心のなかで密かに願っています。 U14型ブルーバードが新車だったころ、親からもらったカタログをボロボロになるまで読み込むほど好きだった筆者。 結局、知人のブルーバードを迎え入れることにしました。しかし、迎え入れるにあたって問題なのは「パルサーをどうするのか」ということ。 不具合の多いクルマなので「メカにもそれなりに詳しく、大事にしてくれそうな人に乗ってもらいたい」というのが親心というもの。 その結果、このクルマの素性を知っている高校時代の後輩に譲る方向で話を進めていました。 しかしある日の夜、父が「パルサーいろいろ直したのに手放すのはもったいなくないか?」といってきたのです。 筆者のなかでは手放す以外の選択肢を考えていなかったこともあり、事態は急転直下。 父が置き場所を確保したということで、急遽パルサーをそのまま所有することになったのでした。 ただ、勝手に父と私が決めたことであり、家族の他の者には知らせていなかったのです。 「学生の身分でクルマ2台持ち」という大それたことはすぐ母にもバレました。 しかも、筆者がブルーバードを引き取りに行くタイミングで・・・。 激怒した母から逃げるように家を飛び出したことを、今でも鮮明に覚えています。 乗ってきたブルーバードをまったく見ようともせず、1週間ろくに口も聞いてくれませんでした。 その後、謝って許してもらえましたが、クルマを複数台持つということはこんな家庭トラブルもあるので、しっかりと事前に話をするようにしましょう(苦笑)。 メインカーとなったブルーバードはまったく故障知らずで快適。当たり前のことにもの凄く感動をしました。 あまりにも絶好調すぎて、物足りなさすら感じるほど。 「最初の愛車がその後のクルマ人生を決める」といいますが、確実に普通の人の感覚から外れてしまっていることを実感したのでした。 ブルーバードに乗るきっかけとなったオーナーズクラブの方々との交友を続けていくなかで、「カスタム」することも覚えていきました。 元々カスタムパーツが豊富ではないクルマなので、諸先輩方の流用情報、不要となったパーツを譲っていただいたことも。 その結果、自分のクルマを作る楽しさも覚えていったのです。 ブルーバードに乗るようになってからはますます移動距離も延びていき、5万kmで譲っていただいたブルーバードはあっという間に10万、15万kmと距離を伸ばしていくのでした。 その間ブルーバードもそれなりの故障などを経験しましたが、ラッキーなことに復活して今に至っています。 ■4.士気を上げる!?勢いで手に入れた3台目 月日は流れ社会人になりました。 数年が経ち、それなりに仕事を覚えてきたころ・・・。いろいろと不条理なことにぶつかったりするのは多くの方々が経験してきたことと思います(筆者もその一人です)。 仕事でストレスフルだったあるとき、昔からお世話になっている先輩からクルマの買い手を探している話が舞い込んできました。 クルマは2002年式ダイハツ コペン(L880K型)。 クルマに詳しくない方も知っている人気車です。 嫁ぎ先は探せばすぐに見つかると思いました。 売値を聞くと個人売買なので相場よりも安め。 しかも車検を取ったばかり。 これは・・・かなり魅力的に映りました。 コペンがデビューしたとき、まだ中学生だった筆者は気になるクルマだったので自転車でディーラーに観に行くほど気になる存在だったのです。 そのとき、オプションカタログに載っていたトミカを思わず注文してしまったほどです(笑)。 以来、一度は所有したいと思っていたクルマですが、筆者の懐事情はまったく余裕はありません。 しかし、この条件と金額は今後出てくる気がしない。 貯金をかき集めればどうにかなる。 何か生活に弾みをつけたいのも相まって、意を決して購入することにしました。 ブルーバードのときの反省を踏まえ、今回は事前に家族にも相談をしました。 当初は「何を考えているんだ!」といわれましたが、車種がコペンであることを告げると「コペンならいいか」と。コペンの魅力、おそるべし。 売主に「購入者が見つかりましたよ。私です」と伝えると、「待て待て3台持つのか!?」と心配されましたが、筆者の熱意で納得していただきました。 夢のコペン!そしてクルマ好きが一度は夢見るオープンカー生活がスタートしたのでした。 コペンは当初1年程度か、車検のタイミングまで乗り、価値のあるうちに手放そうと思っていました。 しかし、乗ると魅力にどんどんハマってしまい、7年経った現在も所有しています。 ■5.感覚がマヒ!?夢を叶えるための4台目 我が家のラインナップでコペンを除く3台に共通点があります。 それは「すべてSR20型というエンジンを積んでいる」ということが挙げられます。 具体的には・セレナ(父所有):SR20DE・パルサー:SR20DET・ブルーバード:SR20VE といった具合に、SR20シリーズのなかでも種類が異なります。 SR20を大きく分けると4種類に分類されるのですが、気づけばその3/4種類そろっているのです。 そう、残りのSR20シリーズはあと1種類なのです。 残すはSR20VETというエンジンのみ。 このエンジンを積んでいるのは、初代エクストレイルのGTというグレードのみになります。 初代エクストレイルが出たとき、GTだけがエンジンとバンパー&グリルが他のグレードと異なり、そこに惹かれていました。 筆者は前期型のGTのデザインが好きだったため、チャンスがあれば欲しいなと常々思っていました。 実はこれまで、購入を検討する機会が何度かありました。 そのタイミングとは、ブルーバードが不調になったときであり、何度か中古車を見に行ったものの、結局踏み切れずにいました。 そしてあるとき、エクストレイルGTを購入するきっかけ(大義名分?)が訪れます。 それは、父所有のセレナを親がぶつけた際、オールペンしてきれいにしたことでした。 それまでは趣味のスノーボードをする際に借りていましたが、きれいになったことで雪道を走らせたくないというのです。 そこで、スノーボードに行くためのクルマが必要になったのでした。 なぜかそのタイミングで、これまで見たことがないボディーカラーと装備を持つエクストレイルGTの中古車を近所の中古車販売店で発見してしまったのです。 さっそく見に行ったところ、多少汚れていたものの目立つ傷もなく、自身の経験則から、距離や装備、コンディションを総合して妥当な金額に思えました。 しかし、またしても懐事情が厳しいため、コペンを手放そうと決意。何件か査定してもらいました。 しかしここで予想外のことが! 「もし可能なら、手放さずに持ち続けた方が良いですよ」と査定をしていただいたそれぞれの買取り店でいわれることに。 たしかに、ここで手放したらもう買い直せないことは想像できました。 そこで、無茶を承知で4台目を増車することにしたのです。 「どうにもならなくなったら手放せばよい。乗り続けたければ頑張ればよい」というのが、筆者がたどりついた結論です。 ちなみに、家族はもう驚きませんでした(もうクルマが増えることにマヒしていた!?)。 筆者がSR20シリーズエンジン搭載車をコンプリートするという夢を知っていたので「悩んでいるうちに売れて後悔するのは目に見えているから早く買ってきなさい」と後押しまでしてくれました。 そして日産 PNT30型のエクストレイル GTを購入し、所有車が4台となったのでした。 ■6.まとめ:やれる範囲でやろうと思えばどうにかなる!そして自分も周りも感覚がマヒしてくる・・・ 思い出を振り返りながら書いていたら長文となってしまいました。 ここまで読んでいただき「どうしょうもないなぁ」と笑っていただけたら幸いです。 よくクルマを複数台持っている人のことを「浮気癖がある人」という人もいます。 筆者にとって、クルマは「恋人」というより「子ども」の感覚です。 手をかけ「直す」ことが「育てる」感覚になっていました。 筆者としては、可能な限り、このバランスの取れたラインナップを維持していきたいと思っています。 クルマは乗っても乗らなくても所有をしていれば維持費はかかるモノです。 日々の生活からクルマを楽しむために節約をしていますが、それもまた楽しみになっていきました。 よく今後のカーライフについて質問されることがあります。 筆者が手放せない理由に愛着が湧いていることはもちろんですが、知らぬ間に玉数も減っている世代となり、手放すともう二度と手に入れられない気がしているからです。 満足して一気にラインアップが変わることがあるかもしれませんし、現状を維持するために、さらに増車してしまう可能性もゼロではありません(笑)。 さらなる多頭飼いにご期待(?)ください。 [ライター・撮影/お杉]
こんにちは、ライターの糸井賢一です。『旧車王ヒストリア』では初の記事になりますが、よろしくお願いします。 ■20年前のクルマは現行車か?旧車か? はじめての原稿執筆にあたり、まだ旧車王ヒストリアに関して右も左も分からない身。 編集長の松村さんに「どのような記事を書いたらいいか?」と相談したところ、 「所有されるシルビアについて書かれてはどうか。例えばコンディション維持にかかるコストの変化とか」とのアドバイスをいただきました。いやいや、シルビアといってもS15ですよ。 シルビアの最終モデルで、旧車にはほど遠い現役の車種じゃないですか! そう自分では思っていたのですが、購入から22年を経ているということは、今の若い人から見れば自身が生まれた頃に発売されたクルマ。 僕が成人を迎えた頃、1970年のクルマをどう見ていたか。 思い返すと、なるほど今でいう旧車に近い感覚だった気がします。 そうか、S15(おまえ)はもう旧車だったのか。 誇らしくもあり、ちょっとショックでもある、複雑な気分。 ■旧車に強く、良心的な修理屋さんのおかげで維持できてます さて、S15の維持にかかるお話といっても、まだそれほど大きな影響を受けていないというのが正直なところ。 ボディにサビが出てきた。プラスチックパーツが劣化し、雨漏りが出てきた。 樹脂パーツの塗装剥がれが深刻。 エアコンが調子悪く、コンプレッサーの交換が必要。オルタネーターもそろそろ寿命。などなど……。 それなりの手入れは必要ですが、これは予定の通りというか、消耗品交換みたいなもの。 毎年、かけられるお金の範囲で直し直し乗ってます。あ、でも面倒をみてくれている修理屋さんが、ものすごく良心的だから維持できているってのはあります。 販売店に持ち込んでいた頃は、同じ箇所の修理、パーツの交換でも、倍近くの費用が必要でしたから(販売店批判じゃないッスよ。仕組みとして、どうしたってそれくらいかかるものでしょう。 修理にかかる時間は、即対応の環境を整えている販売店の方がずっと短かったですし)。 近年、パーツの欠品や値上げの話をちらほらと耳にするので、今後の維持には苦労させられるかもしれません。 自動車保険の金額は、シルビアの等級のアップにともなって購入より5年目くらい上昇。10年目くらいまでゆっくりと下降。 そこから年々、数百円ずつ上昇しながら今に至っている感じでしょうか。 安くはありませんが、支払える金額です。 ■盗難が不安で乗り換えを検討するも、いつも親バカ状態に 気になっているのは中古車価格の上昇と、それに比例するように多くなった盗難被害の話。 数年前、先述の修理屋さんに「念のため、S15にGPS信号発信装置を取り付けましょう」との助言を受けました。 聞けば愛車を盗まれるお客さんが年々、増えているそう。 盗難は身近な問題なのだと自覚した次第です。 シルビアがまだ販売店で購入できた頃。 GT-Rのようなスペシャルモデルでもない一量産車にここまで需要が増し、盗難が多発するようになるなんて、誰が考えられたでしょう。 ライターという仕事柄、取材で出先のコインパーキングに2~3日、駐車することはよくあります。 これまではなんてことない、心配なのはせいぜいイタズラくらいの行為だったのですが、最近は盗難に怯える有様。 お仕事が終わったのち「S15がなかったら、どうしよう」と、おっかなびっくりコインパーキングに戻り、無事に安堵する状態です。コインパーキングに駐車しても心配のいらない、盗難とは無縁の足車を用意すべきか。 けれど都内でもう一台分、駐車場を借りるのは経済的な負担が大きい。 そもそも「盗難が恐いから、もう一台、クルマを買う」なんて、はたして家族の理解を得られるかどうか……。うん、たぶん無理。 実際、こんな不安を抱えて日々を送るのは精神的によろしくないと、現行車への乗り換えを検討したこともあります。 でもね、販売店で気になるクルマを試乗したのち、帰り道でS15を運転するや「S15って、こんなによくできたクルマだったんだ。 20年後のクルマと比べても、見劣りしないじゃん」と、逆に再確認させられるんですよ。 運転席からの視界は良く、後部座席に気軽に荷物を放り投げることができ、1300キロに満たない車重はヤれたエンジンであっても軽快に走ってくれる。 アップであろうとダウンであろうとシフトチェンジは快感で、適度に低い車高と重心がもたらす安定感とロールの少なさは家族にだって好評。 時に小さなお子さんから「すぽーちゅかー!」と指さされ、手を振りかえしてあげるなんて……。 おぉ、乗り換えたくねぇ! このまま壊れるまでS15に乗っていてぇ! 分かっていたことではありますが、乗り換えの理由が「盗難が恐いから」は、あまりにも馬鹿馬鹿しく、そして悲しい……。 ■心がけ程度でも、やるのとやらないのでは違うと思うから いやもう、お上はもっと本腰を入れて、クルマの盗難を防いでくれないかなと。 SNSでも「盗難されました、拡散希望!」って投稿を見ない日はありませんし、こんなに盗難が多いのは「需要が高まっているから」では片付けられない、異常な事態だって伝わって欲しいですねぇ。 将来のために声を上げるのも大事ですが、今の環境の中で愛車を守るのはもっと大事。 日々、窃盗団に目を付けられないにはどうすればいいか、コインパーキングに駐めるにしても盗みづらいスペースはどこかを考えて行動してます。 念のためにドライブレコーダーも駐車中の記録ができ、GPS機能の付いた機種を選びました。ネガティブだけど、これも旧車を維持するための現実。 そんな心配のいらない時代が、早く来るといいッスねぇ……。 [ライター・カメラ/糸井賢一]